ラジオというメディアは、これまでいったい何度殺されかけたのだろう、とときどき思う。
テレビが登場したとき、ラジオはもう終わりだと言われた。映像と音が一緒に流れてくる魔法の箱の前で、音だけのメディアに未来などあるものか、と。ところがラジオは死ななかった。人々は車を運転しながら、台所で皿を洗いながら、深夜に布団のなかで、相変わらずラジオを聴き続けた。やがてインターネットがやってきて、今度こそ本当に終わりだと言われた。音楽はストリーミングで好きなだけ聴けるし、喋りはポッドキャストがある。ラジオの役割などもう残っていない、と。それでもラジオは、しれっと生きている。radikoがあり、深夜放送には根強いファンがいて、災害が起きればまっさきに頼られるのは、いまもあの古めかしい電波だったりする。
なぜ死ななかったのか。たぶん、ラジオが提供していたものの正体が、「映像がないこと」でも「最新であること」でもなかったからだ。手を動かしながら、ほかの何かをしながら、それでも誰かの声がそばにある——その一点を、新しいメディアたちは案外うまく代替できなかった。形式が古くなっても、果たしている機能のほうが死ななければ、メディアは生き延びる。ラジオが教えてくれるのは、たぶんそういうことである。
さて、なぜこんな話から始めたかというと、いま「死んだ」と騒がれているものが、ほかにもあるからだ。SaaSである。
「SaaSは死んだ」。なんとも物騒な言葉が、またぞろ業界を賑わせている。発端は、2024年の暮れにMicrosoftのサティア・ナデラがポッドキャストでぽろっと漏らした一言だった。曰く、伝統的なビジネスアプリケーションはAIエージェントの時代に崩壊しうる、と。で、それが2026年の2月になって妙なかたちで火を噴く。Anthropicがプレビューで出していた「Claude Cowork」への警戒に、OpenAIの企業向け基盤「Frontier」の発表が重なって、AdobeだのSalesforceだのといったSaaS銘柄が雪崩を打って売られた。世にいう「アンソロピック・ショック」というやつである。
ところが、ここがおもしろいところなのだが、よくよく見てみると、当のSaaS企業の業績はほとんど傷ついていない。Sansanの寺田親弘がある対談ではっきり言っている。株価はあれだけ動いたのに、実際に業績へ影響が出たSaaS企業はほとんどなかった、と。つまりこれ、現実が動いたのではなく「物語」が動いただけなのだ。AIが世界をまるごと飲み込む、という筋書きに投資家がうっとりして、SaaSの成長なんてもう続かないんでしょ、と先回りで見切りをつけた。要は気分の問題だったりする。テレビが出たからラジオは終わりだ、と言ったあの調子と、どこか似ている。
で、本当にSaaSは死ぬのか、という話なのだが。どうも、そうは思えない。
そもそも、だ。「殺す側」だと名指しされたはずのAI企業のほうが、その筋書きをいちばん白けた目で見ていたりする。Anthropic Japanの東條英俊は、同じ対談で、自分たちは別に「SaaSの死」など掲げていない、と言う。むしろSaaSというやつは業務に特化した知識やルールがびっしり詰まっていて、何より顧客のデータを預かっている。だからAIの時代にはかえって価値が上がるんじゃないか、と。死神と名指しされた当人が「いや、殺しに来たわけじゃないんで」と苦笑いしている。なかなかどうして、間の抜けた構図ではある。
もちろん、AIの進化そのものは止まらない。これはもう、誰がどうあがいても止まらない。だとすれば、SaaSにできることは、その流れに歯向かって勝手に滅びることでも、まして自分から死ににいくことでもないはずなのだ。AIと組む。共存する。協働する。生き残る道があるとすれば、たぶんそこにしかない。
そして「死なないSaaS」の輪郭は、実のところもうかなりはっきり見えている。日経クロステックが取材した開発ベンダーが、なかなか身も蓋もない理由を並べていた。たとえば税制。毎年のように変わるし、数年に一度は大きな法改正がやってくる。SaaSを使っていればベンダーが粛々と対応してくれるが、これをAIエージェントに自前でやらせるとなると、そのコードが法解釈として正しいのかどうか、社内で判断できる人間がいないと話にならない。おまけに生成AIにはハルシネーション——もっともらしい顔で嘘をつくあれ——がついて回る。給与計算のように、一円の狂いも許されず、毎回きっちり同じ答えを出さなければいけない仕事を、毎度AIに丸投げするなど、コスト的にも信頼性的にも、まあ無理がある。
ここで、さっきのラジオの話が効いてくる。技術の革命というのは、案外、総入れ替えなど起こさないものなのだ。新しいものが古いものを丸ごと葬る、という筋書きは威勢がいいが、現実はもっと地味で、もっとしぶとい。肝心なのは、ソフトの形がどうこうではなく、業務をちゃんと終わらせられるかどうか、ただそれだけなのだ。ラジオが「ながらでも誰かの声がそばにある」という機能で生き残ったように、SaaSもまた、果たしている機能のほうが死ななければ生き延びる。そしてAIエージェントを企業が安心して使うには、ルールが事前に決まっていて、再現性があって、統制が第三者にも検証できる——といった条件がいくつもいる。その土台は、結局のところ、データと業務ルールをこつこつ溜め込んできたSaaSが握っている。
とはいえ、これを「だからSaaSは安泰だ」と読まれると、それはそれで困る。科学の進歩というのは、わりと平気で残酷をやらかすからだ。差別化をさぼって、AI機能をとってつけたように貼っただけのSaaSは、おそらく生き残れない。誰にも使われず、複雑なまま放置されたソフトは、誰に看取られることもなく、静かに消えていく。AIをまとって強くなるSaaSと、AIに飲まれて消えるSaaS。道は、たぶん残酷なくらいきれいに分かれる。ラジオだって、すべての局が生き残ったわけではない。生き延びたのは、自分が何のために聴かれているのかを手放さなかったところだけだ。
だが、進歩が残酷だからといって、立ち止まっていい理由にはならない。火を怖がって洞窟に引きこもった連中は、暖もあかりも手に入れられなかった。Sansanが「いまはむしろ追い風」などと涼しい顔で言えるのは、AIの時代には自社のデータと業務の文脈がものを言う、と何年も前から踏んで、ちゃんと仕込んできたからだ。脅威か、機会か。それを決めるのは、たぶんテクノロジーの側ではない。こちらがどんな顔でそれと向き合うか、なのである。
死神か、救世主か。——そもそも、この問いの立て方からして、どこか間違っている気がする。AIはそのどちらでもない。変化を拒む者には死神の顔で迫ってくるし、変化を抱きしめる者には救世主の顔で微笑んでくる。要するに鏡なのだ。こちらの顔を、そのまま映し返してくるだけ。
だから「SaaSは死んだ」という、あの威勢のいい一言には、こう返しておきたい。死ぬのはSaaSという形式ではない。進化することを面倒くさがった者だけが、勝手に死ぬのだ、と。ラジオがいまも深夜の電波の向こうで誰かに話しかけているように、AIと並んで歩くことを選んだソフトウェアは、名前を変え、形を変えながら、これからもしれっと私たちの仕事を支えていくだろう。残酷な進歩のど真ん中で、それでも足を止めずに、隣を歩く相手として付き合っていく。——案外それが、生き延びる者のいちばん地味な作法だったりする。


